連勇太朗のweblog
慶應義塾大学環境情報学部
専攻:建築設計
木賃アパート/民宿/銭湯などの再生をしています
連絡をとりたい方はprofileからどうぞ。
身体/測定/観測
 

世界には文字情報が溢れている. 僕はどちらかと言えば本が好きな部類の人間である. 本を効率的に読むことは自分自身の好奇心を刺激することになるし、普段接することのできないモノゴトの側面を知ることができる.  けれど、なんとなく勝手に理解した気になっていることが結構多いのも事実である. 本当は何も理解していないのに...

そーえいば、ソクラテスとパイドロスの対話に出てくるエジプトの発明家トートとタムスの「文字」に関する一連のエピソードを思い出したりする...文字は薬か毒か??

そんなことを考えながらも、やはり「身体」的経験によってでしかわからないことが世の中にはたくさんある. 身体性を介した理解が一番強度がある. そして、自分の固有なものであるはずの「身体」が感じるものは、意外と他者と共有可能であるということも最近よく感じている.
だから、一人関係主体者としてモノゴトに積極的に関わることを現在努力している. そういう意味で人参ももはや他者ではない.



鮭も、もちろん.


自分のスキルを拡張してくれるツールが世の中には溢れている. 逆にそのようなツールは誰にでも使うことが可能である.
さて、モノゴトを表現/作り出していくには、必ず内的な表現の契機と発露が必要である. 今日も僕は小柄ながら一生懸命自分の中で「確か」なものを手探りで探している.

色々なプロジェクトの「発掘」作業は終わった.
ただ今、「編集」の段階.

一月にはすべてが明らかになる. と思うよ.
色々な世界


22歳、色々吸収して勉強して経験して生きてきたわけですけど、常に単純な「なぜ?」と思う気持ちを持ち続けたいです.

自分が長年頭の中で構築してきたものが、特定の経験を通して崩され/再構築されていく過程はスリリングです. 例え同じ答えになっても. そしてそれは意外と単純なことであったりする.

自分、今、頑張って脱皮しています.

感謝の気持ち.


最近、内容の薄いエントリーが多いという噂の「つれづれん」ですが、見てください!!祖父から受け継いだ術、完璧な魚を食べた後.

小さい頃からの修行の末、ある種の境地に達しています. これより魚をうまく食べれる人を知っている場合は教えてくださいw

せっかく穫られて食べられてしまうのなら、その恩恵を最大限享受できる状態にしておくことが、こちらの人間としてのマナーでしょう. ]

しかし、この食べ方。人に伝えることがなかなか難しい。

白馬村 新民宿宣言


長野県の白馬村で「新民宿宣言」というプロジェクトをしています.
 
土地に密接に結びついた「生活文化」は魅力的である. 土地との結びつきを失った現代の都会人はそんな生活に憧れるのではないだろうか. 「民宿を訪れる」  そこには上質な日常=非日常が待っているに違いない.

白馬村の民宿は80年代のスキーブームの中で繁栄したが、今ではその波も弱くなり、時代の流れの中で少しずつその役目を見直す時期が来ている. 今回のプロジェクトは僕の他にも分野の違う仲間がいて、それぞれの方法で能力を発揮し、プロジェクトを進めている.もちろん、僕の担当は建築. といっても大規模な改修をするわけでもないし、新築するわけでもない. 「設え」に注目して再生していく係. または建築的な思考方法でモノゴトを見て行くことが役目. 



白馬に点在する建物は地方特有のどれも見たことのあるような退屈なものが多いけれど、この土地には圧倒的な「風景/ランドスケープ」がある. そして、オーナーとのインタビューや様々な関わりのコミュニケーションの中でやはり確固とした「その土地らしさ」というものが存在しているという確実な実感がある. でも、それはガイドブックに載っているような「らしさ」ではなくて、「私」という有限性のある領域の中で立ち現れていくる動的プロセスそのものが実態である. そして、同時に他者と共有可能である「らしさ」でもあるとも思っている.

白馬を訪れる人にとって、何が価値になるのか...表層的に作ったものはいつかは飽きられてしまうし、壊れてしまう.
良品計画の土谷さんが言っていたが、日常の質を如何に向上させるかということが重要になってくる. 東京の人間にとって白馬の日常は非日常なのだ.





都市生活が「断片化された行為の集積」だとするならば、土地と密接に結びついた生活文化は「文脈を有する一連のまとまった行為の蓄積」であると言える. 生活文化とは要するに「統合された生活」だと思う. 現代、還元主義的にモノゴトを考えすぎて自動化のシステムを加速度的に作り上げてきた果てに、たぶん人間は還元的には語れない/思考できない「場所」に戻りたくなってくるはずである. 自然回帰欲求. 白馬村の民宿が基盤としてる生活は「統合された生活」である. ただ、スキーブームがあまりにも断片的な対処によって民宿の生活文化を覆い隠してしまった. 脈略のない増改築 、東京でも食べれるような夕飯(ハンバーグ、旅館ちっくな一人鍋...)etc....

新民宿宣言は脱還元的思考で「統合した生活文化」を体現した民宿を適切なデザインで表現し直していくこと(こういうデザインが一番難しい). 地味だけど、ものすごいプロジェクトだと自負している.

何よりも僕自身の価値観を大きく変えつつある.



生活文化とは
現在、長野県の白馬村4日目です. 民宿の再生をしています.
かなり色々なことを体験し、考えて、動いています.
現在、MTG中. 激務をこなしています. 帰ってきたら、書きかけの報告/コメントをエントリーします. 民宿再生プロジェクトについてもちゃんとエントリーあげます.

今日は早めのおみやげということで下記の画像を贈ります.
白馬村駅前のマクドナルドです.

僕の名前は連勇太朗です。
僕の知り合いで、僕の名前をちゃんと認識している人はどれくらいいるのだろうか...


中学時代、ハレの卒業式.
卒業生の名前が一人づつ呼ばれていきます.
そして、僕も名前を呼ばれました.
「ムラジ ユウタロウ君」
と、ここまでは大丈夫.
そして、式が終わってサッカー部の後輩が集まってきました.

「先輩先輩!!先輩の名前ってレンタロウじゃなかったんですか!?」

みんな今までの長い付き合いもあり、軽く裏切られた気分だったのでしょう、何人かパニクってました. でも、「ムラジ レンタロウ」だと勝手に勘違いしていたのはみんなの方です.


高校時代、体育でのとある風景.
新しく転任してきた、先生が出欠をとっていきます.
ちなみに僕はこの先生に前に一度、自分の名前をちゃんと伝えたことがあります.
「サイトウ、ササキ、スズキ、」と先生が名前を呼んでいきます.
そして、とうとうマ行

「マツダ、ムライ...!?ツ、ツ、ツ、ツ、、、、ツヅレ!!」

全員唖然.
たぶん、先生は僕の名前が変わっているというトコまでは覚えていたのでしょう.
でも、しかしなぜ急にマ行からツにいっちゃったんだろう.


大学時代、またもや体育の時間
確か、テニスでした.
SFCは体育が必修なので、毎回厳しく出欠をとります.
体育の出欠簿に書いてある名前は全部カタカナ表記らしい.
ってことで、いつも他の先生はつっかえつっかえ僕の名前を呼ぶのだが、
この時のテニスの先生は壮絶でした.

「ム、ムラ、、、えーっと、ムラ ジユウタロウ!!!」

ん!?!? 自由太郎?確かに、変わった名前が流行っている昨今、ありそうな感じはする名前ではある. さすがに、この時はもう面倒くさくて「はい!」って素直に返事しちゃいました.



という、波瀾万丈な名前人生を送ってきたわけですが、ネット時代になりこの名前も悪くないと思うようになってきました. もはや検索の時代. 検索結果に表示されることが重要な時代.
同性同名だったり、近い名前の人が少ないというのはとても有利な気がします.
ということで、ちゃんとこれからも検索してもらえるように頑張っていきたいと思います.
アウトプットし続けることが「何か」を実体化する/繋ぐ



コラボレーションの能力は間違いなく今後、世界を生きていく中でもっとも重要なスキルのひとつになってくる. コラボレーションをする場合、メンバーの能力は足し算/引き算ではなく、かけ算で倍増していってほしいものである. そのような環境を如何に醸成できるかということはモノゴトを動かしたいなら、言い訳なしで求められること. 僕はなかなか苦戦していますが...w

建築を勉強している人ならお馴染みであろうオランダの設計事務所OMA(office for metropolitan architecture)のRem Koolhaasを追ったドキュメント本「行動主義 レム・コールハースドキュメント」はそのような意味で、レム独特のコラボレーション技法の一側面を勉強することができる面白い本である. 僕は暇な時にいつもぱらぱらとやっている本ですw
絶え間ないアウトプットをブックレットという形にまとめたり、建築をダイヤグラム的に解いていく一連の方法論は示唆深い. レムが「空間」や「機能」という言葉を使わないようにしている意味も納得がいく. わかりやすい共有構造を如何に作り出していくかが今後の建築にとってのひとつの挑戦である.



個人レベルでもそうだが、国/自治体レベルでもコラボレーションは今後必須である. 上山信一の「『政策連携』の時代」を読み返した. 政策連携に関係した実例の紹介と理論を基に構成されている. 社会的状況を確認する上でとても参考になる. 組織連携は組織間の調整が主体となるが、政策連携の場合は個人のイニシアチブが原動力となり重要となってくる.

個人のイニシアチブ

これはやっかいやっかい. もう延藤安弘さんのさんかく君、しかく君、ろっかく君の世界である. やはりこのような時代にあっては、有効なコラボレーションの方法論をどれだけ生み出せるかということが形式知レベルでも暗黙知レベルでも求められる.



パターンランゲージもそのような文脈で理解することが出来れば、現代においても有効な理論だと僕は思っている. アーキコモンズもこのような文脈で構想したものではある.

幾つかプロジェクトをやっているが、平塚スタイルのプロジェクトのウェブリリースが間近に迫っている. ロゴデザインやウェブデザインがどんどん出来上がってきている(写真). 今回は後輩の荒牧(しゃけ)にデザインをお願いした. まだ2年生で、戸惑いもたくさんあるだろうけど、少しずつ案をブラッシュアップしてとてもいいものになってきた. ウェブリリースが楽しみだね. 
成果や過程を見える化する. ヴィジュアライゼーションしていく. 人は視覚情報に弱い. 有効なコラボレーションは共有可能の視覚情報から始まる可能性がある. 実体がなくてもデザインがあればモノゴトが進展する可能性がある. 人のモチベーションも上がる.
平塚スタイル創造プロジェクトもロゴ発表とウェブリリースによってどんどん実体化していけばいいと思っている.

デザインや建築や形態の力を信じてたい.
正しく、ここにモノゴトの根拠がある気がする.
さて、僕は生き急いでいるのだろうか.
昔からだけど、特に最近「なぜ、そんなに生き急ぐように活動するのか?」「もう少しゆっくりやれば?」「もっと地道に設計の勉強をすれば?」というようなことを良く言われる.
これはある意味、もっともな意見ではある.
しかし、僕はもう少し違う見方をしたいと思っているのも事実. 別に地道に活動するのを避けて派手にやろうとしているわけではなくて、学び方の問題だと捉えていただきたい.

学ぶということは究極的には情報のインプットではない. 常にアウトプットが伴っていないと「学ぶ」という行為は成立しないと思っている. 自分の中から吐き出された「もの」が現象化することによって、初めて「発見」があり、「発見」から何かを学んでいくのではないだろうか.
慶應大学の井庭崇が構想中である「創造システム理論」(creative systems theory)はニクラス・ルーマンの社会システム理論を基に「創造」という事態の成立過程の説明を試みているが、ここで創造システムの要素を「発見」と捉え、思考していることは非常に示唆深い. そういう意味で「学び」は創造的な行為である. 人間の創造性が発見の連鎖であるならば、学びも発見の連続であるはずだ. ルーマンやオートポイエーシスが基になっているこの考えは頷ける点が多い気がする.

自分探しというものが流行っている. らしい...
若者のインド一人旅、フリーターの増加、自己啓発イベントの流行...既に「自分」という確固とした存在があり、今の自分は本当の自分ではない. ありのままの自分を求めたい、知りたい、自分は何者なのか. 本当の自分はどうやったら探せるのか、どうやったら本当の自分になれるのか. 今の多数の人が前提としている問いはこのようなものだろうか...
でも「本当の自分って本当にあるのだろうか」

速水健朗さんの「自分探しが止まらない」を読んだ. 社会的な状況からこのような事態を説明していてとても興味深かった. 



自分探しが止まらない人は一度、荒川修作に会ってみたらいいんじゃないかと思っているw
色々すっきりするのではないだろうか...

金子郁容の「ボランティア-もうひとつの情報社会」という僕の好きな本がある. 今までの価値観では「情報」というものは「非公開」であることの方が価値が大きい場合があった. そのような意味で、情報は静的であることが多かったが、ボランティアの「つながりをつけるプロセス」に着目して、情報を「公開」していくことの意味が明らかにされている. 情報を動的なものとして捉える姿勢がそこにはある. ネットの出現によって、この傾向は加速しているはずである. ボランティアはまだネットが本格的に普及する以前に書かれた本である. そして、着地点は「個人」である. 同じ金子郁容の「コミュニティソリューション」という本はそのような意味で、情報の動的な性質によって変わる社会問題解決の手法について書いている. 「ボランティア」よりもう一歩先に論を進めたものになっている.
2つの本に通底する共通のものは情報の「動的」な性質に関する思考である. 常に発信していくことで現象化していくフィードバックがものを動かしていくという考え方である.



オートポイエーシスと言えば、マトゥラーナ/ヴァレラの「知恵の樹」というとっても面白い本がある. この本は下西風澄に教えてもらった. 正しく、今まで考えてたことが様々な事例と比喩で鮮やかに綴られている. 一度は人生で読んでおくべき本のひとつな気がする. 




さて、僕は生き急いでいるのだろうか...
ここでは、「ノー」と言ってみたい.
常に自分の周りで有効なフィードバックループを作り続けていきたい. その中で何かを学べる気がするし、自分を作り出していけると思っている. そのためには、絶えずアウトプットを出して現象化するものを評価していく姿勢が重要であると思う.
僕の周りの大学生は、自分の周りを「環境」と捉え、所与の条件の中で生きている人が多いと最近感じる. 状況は一時的な状況でしかない. その状況の中に入り込んで、フィードバックループを自分の周りで作って、状況を自分と共に変えていく「勇気」のある人はあまりいない. 学ぶには動き続けるしかない. 発信していくしかない. 例え未熟な状態であってもいい. 全力でやればいい. それには体力がいる. 自分が「完成」する時は一生ないw

さてさて、自分は「勇気」があるのか...
それはブログ(これもフィードバックの円環を作り出すツールではあるが)でではなく、これから外にでて、今日も活動していくことで明らかにしてみたい. では!!
学部最後の学期が始まりました.
学部最後の学期のスタートです.
体育をちゃんと履修しないと卒業できないですorz
てか、やっているプロジェクトも頑張らないと.

-木造賃貸アパート再生ワークショップ(木賃の再生)
-白馬村・新 民宿宣言プロジェクト(民宿の再生)
-平塚スタイル創造プロジェクト(食を通した地域活性)
-(もしかしたら銭湯プロジェクトはじまる??)

というように、まぁ忙しくなりそうな気配です、というより既に忙しいです.

卒業制作を上記のプロジェクトにするか、新たなに始めるかは検討します.
論文も書かないと.
時間があれば、コンペなんかも出してみようかなと思っています.

自分、学べ、学べ.
動いて、学べ.

Keith Jarret "Death and the Flower"
 

最近、なかなか寝付けない夜が多いです.
そんな時は、読書したり、ちっこい1/2ギター弾いたり、映画を見たりするんですが、
昨日の夜もそんな寝付けない夜で、どうしようか考えた結果、久々にKeith Jarretの"Death and the Flower"を聴くことにしました.

そして、ますます目が覚めてしまうという状況に...

このアルバムこんなすごかったっけ??w
最初に聴いたのは確か中学に入学したくらいの時. その時も「いいな」とは思っていたけど、9年間の間に自分が成長したのか、趣味が変わったのか、わかりませんが、昨日の夜一人で勝手に感動してました.

このアルバムは全3曲で構成されています.
-Death and the Flower
-Prayer
-Great Bird

アルバムとしての完成度も高いのだけど、アルバムタイトル曲(23分の大作)がやはり圧巻、そして傑作.
最初のフルートとパーカッションのカオティックで神秘的/宗教的な部分から始まり(昔はあまり好きになれなかった部分w)、少しずつチャーリー・ヘイデンのベースとキースのピアノが混ざっていきます. 8分過ぎからデューイ・レッドマンのサックスが入り込み、サックスの音を中心に曲が展開し、前進していきます. この物語が展開して、前進して、開放される一連の流れが「気持ち」を直に動かしていきます. ドラムが好調に全体に馴染んだ頃には、もう既に有無を言わさぬ「世界観」に浸っている自分に気付きます/気付きません.
サックスが落ち着いた後、キースのピアノとメロディが、世界観を強烈に打ち出した今までの時間の、ちょうどもう一つの裏側の領域を静かに冷静に「横断」していきます.
ベースソロもとても素敵.
そして、サックスと共に、あの世界観、がまた戻ってきて、最後は最後は最後は、全員の迫力あるセッション.  今までに提示してきた世界観や物語を、「セッション」の力で破壊?構築?していきます. 最後は物語の背後にある価値観を、演奏者自身の呼応が超えていってます.

という、かなり意味不明な曲の説明を書いてしまいましたが、是非、一度聴いてみてください.  キースは本当に人の心を動かす力を持ったピアニストですよっ.
こーいうの、とっつきにくいという人もいるかもしれないので、そんな人は"the Koln Concert"を聴いてみてもいいかも. ピアノソロだからとてもわかりやすいし、キースの息づかいまで感じることのできる傑作の一つです.



眠れない夜はいい音楽を集中して聴けます.
i-podで聴いたり、作業中に聴いたり. そんな音楽の消費の仕方が多いけれど、集中して、演奏者の息づかいまで感じとる聴き方もたまにはいいんじゃないでしょうか. そして、そういう音楽と出会えた時はとても幸せになりますよね.